昭和43年9月12日夜の御理解
唯今から昭和43年9月12日夜の御理解を頂きます。私たちはあまりもおかげを頂きすぎておって、あまりに頂いているおかげが、目につかずに、心につかず、そして不平を言う、不足を言う。そういう中に縛られて、窮屈な苦しい生活をしているような感じがする。今御祈念にかかる前に妹がここで話ししておるのを聞かしてもろうてから、私自身が本当にそれを感じたんですけれども、本当に私たちは幸せだと85歳にもなる親をしかも両親がそろうておるということ、しかも元気でおかげを頂いておるということだけれども、私たちは本当に幸福だ言うておるんですね。私たちはそれが当たり前の様に思うておるけれども、だから、今日私は御神前にそのことを一番先にそれは実感でしたから、お礼申さして頂いておったらね。後手に縛られておるのをとかれた。ところを頂くんですね。どんなに例えば、苦しいとか、窮屈な例えば、状態の心の状態の時でも心が思いとか苦しいとか、そういうときには、例えば、縛られておる時ですよ。そういうときでも本当にこんなにも大きなおかげを受けておるということが、私の周囲にはたくさんあるとですよ。それを気づかせて頂いてほんにおかげを頂いておるというところにです。解放される分ですね。もう今まで思うておったことがもう小さいことになってくるんですね。それをどうでも一つおかげを頂かしてもらってね。本当にあまりにもおかげを頂きすぎておること、数えるなら、思うとたくさんあるですよ。これを実感としてはあ、こんなにおかげを頂いておる。日頃お礼申し上げんならんと言うようなところもです。心から、お礼申し上げるようになると、例えば、心に苦しい事があっても、どのような問題があっても、難儀な問題なんかは問題ではなくなってくる。そういう一つおかげを頂かなならん。それとこれと関り合いがあるかどうかわからないけれども、ただこのチ-ムワ-クということを頂きますね。チ-ムワ-クと言うのが、家庭の中にもまたは、教会の大広前の中にもとれておりませんと、そこから、こうじられる。そこから、隙が出来るとそのチ-ムワ-クがとれていないところから、やぶれるわけなんですね。例えば、家庭の中にまあ親子とか、夫婦ががたがた言っておるわけですね。そういうときにその隙間が出来ておるわけですから、そこから、めじりが入って来るというかね。何かちょっとしたことでいわば、人から中傷されたりすることがそれがおかげを落とすほうへ入ってくる。普通はおかげと頂けることでもその心が破れておるときになるとそれが腹が立つ問題になってまたは問題が問題になったり、するような結果になるのです。如何に私どもの心の中に和の心を持って***のもっておかなければならん。そして、持ち場、立場、その生活現場においての信心がです。一*乱れず、さあという、たとえば、言うなら、ここでお月祭がある。たとえば、だれか、ああいう御用を頂いてください。こういう御用を頂いてくださいといわんでも、楽員は楽員、祭員の先生方は祭員の先生方、御信者の方は御信者の方、ここで御用をするなら、たとえば、それがいわんでも、スム-ズに出けて言ったようなおかげ。そういうおかげを頂かねばならない。その度には、まず、各々の心の中に和のおかげを頂かねばならない。自分だけが貧乏くじを引いておる様な考え方、いつもそういうような考え方の中に必ず、チ-ムワ-クとらならんと言ったようなものでなくてその持ち場持ち場を大切にさせてもらうような信心、そういう私はおかげを頂いていくこと。同時に今日頂きますように私どもが本当にお礼の足りないと言うか、本当にとことんお礼を申し上げなければならないこと。お礼を申し上げていない事がたくさんある。それに何かの機会に気づかして頂く。気づかしてもらう。その時にお礼申し上げよると。例えば、心に悩みを持っておっても形の上に難儀を感じておってもです。それは小さい問題になってくる。小さいことになってくる。それこそ、霜に煮え湯をかけたように自分の心がはればれしゅうなってくる。そこに私はおかげを頂ける場というものが、開けてくる。どうでも、そういうおかげを頂けきたいですね。とにかく、お礼が足りない、お礼不足、お礼に気づいていない。そんな感じがしますね。どうぞ。